< 撮影機材 LEICA M10-R BP, Summilux 35mm f1.4 1st >
1月に入って、3回目のワクチン接種も済んだところで、夫の誕生祝いに海辺の街にやってきた。
今回は夫が海の景色を見たいと言うので、観光地としてはマイナーだけど、網代に決めた。
網代は、熱海と伊東の真ん中あたりにある小さな漁師町で、温泉は出るのだがあまり知られていなくて、ちょっと閑散とした漁港と船宿、そして山の上にほんの少し温泉宿があるだけの静かな街だ。
この場所を選んだのは、賑やかな温泉街を避けたのもあるけれど、
亡くなった父が、度々この港の防波堤に釣りにきていて、それでなんとなく懐かしくて、ふと訪れてみたくなったのもある。
父は、釣りをしながらスケッチもしていたので、
今でも診療室の壁に、父が描いた網代漁港の絵がかかっている。
時折、患者さんから、「あの絵の場所は何処ですか?」と聞かれるので、その度に網代の話をしていて、
それなのに、私自身はゆっくりと訪れたことのない場所であった。
今回の訪問では、本当は、父が釣りしていた場所を探しながら港を散策してみたいと思っていたのに、予約した宿は眼下に海を見下ろす網代山の上にあって、海沿いの国道からはスキー場のような急坂を登っていく場所であった。
車で登っても、帰りの下り坂を考えたらぞっとするような急坂で、歩いてその坂を下ってまた登るのは、とても気軽なお散歩コースとは言えず、あっさりと防波堤巡りの冒険は却下されて、宿に閉じ籠りの旅行になった。
それでも、宿の部屋からの眺めは熱海からの眺めとも伊東からの眺めとも違っていて、ほんの数キロの違いなのに、同じ海がずいぶん色々に表情を変えることがなんだか面白かった。
相模湾の中に浮かぶ初島への距離はこの辺りからが一番近いようで、ずいぶん大きくはっきりと見通せたし、
大島も熱海から眺めるよりは大きくて、初島と大島の位置関係のバランスがとても良い。
だから父は、海を見ながら釣りをするのにここの防波堤を選んだのだなと、わかったような気分になったが、
よく考えると、父は遠い海の景色ではなくて、湾を隔てた温泉町の佇まいに心惹かれて絵筆を取ったのだから、同じ場所に立っても、父は私とは違う視点で眺めていたのかもしれない。
父とは似たもの親子だと思っていたけれど、案外と違う面もあったのだとあらためて思ったりする。
網代には明治5年創業の老舗の和菓子屋さんがあるのだが、宿の部屋に通されると、その菓子舗「間瀬」の生菓子が用意されていた。
春を待ちわびるように水仙を型どった、練り切りの鄙びた和菓子は少し古臭いしつらえで、それがなんだか懐かしい感じがした。
一息ついたころ、冬の空は早くも夕暮れの色に染まり始めている。
山の上に広く突き出たような広いテラスは、230度くらいの展望で広々と海が見渡せるから、撮影には絶好な場所だったけれど、
夕暮れから宵闇にかけて、そして夜明けに撮影するのには光が足りなくなるので、
テラスにこっそり三脚を立てて、じっとその時を待つ。
この待つ時間も、私は結構好きだったりする。
夜が更けて対岸の房総に灯るであろう明かりを想像したり、月明かり、星明りの海を想像したり、明日の朝真正面に昇るでであろう朝日を想像したりして過ごす。
そうやって、お誕生日祝いなんだか、撮影旅行なんだか、訳の分からない時間がスタートした。